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「隣る人」上映会/稲塚さんより寄稿


誰もひとりでは

生きられない。

親と暮らせない子どもたちと、隣り合う保育士たち。

そして、子どもとふたたび暮らすことを願う親。

 

ある児童養護施設の日常を追う8年間のドキュメンタリー。

足立区の民生児童委員、稲塚由美子さんが企画したドキュメンタリー映画「隣(とな)る人」 。

ポルテホールにて上映会を行い、その後、稲塚さんとのトーク会を行いました。

 

日時:2020年7月12日(日)14:00~

会場:ポルテホール

定員:30名

参加費:500円

配布物:各報告書、「隣る人」一筆箋

上映終了後 円卓会議「寄り添うということ」

企画:稲塚由美子さん

 

<<お申込み・お問い合わせ>>

一般社団法人 あだち子ども支援ネット

TEL 03-3884-5125 / FAX 03-3884-5140

Email domannakanetto@gmail.com

 


ゲスト 稲塚由美子さん

 

ドキュメンタリー映画『隣る人』企画。社会福祉法人 児童養護施設「光の子どもの家」理事。足立区民生・児童委員。

 


ただ、寄り添うということ ドキュメンタリー映画「隣る人」が教えること


稲塚由美子さんより「隣る人」に関するビッグイシュー掲載記事を寄稿いただきました。

※一般社団法人あだち子ども支援ネット『あだち子ども未来応援円卓会議2019報告書』に掲載しております。

「血がつながった家族に育てられるのがいい」は本当か?

児童養護施設が舞台の映画「隣る人」から学ぶ“柔らかい責任”とは

(2019/09/17 ビッグイシュー より)

 

音楽は一切なく、ナレーションもない。そこには親と暮らせない子どもたちと、その横で笑い、泣き、時には痛みに寄り添う保育士の生活が静かに描かれる。

 

観客動員数は 7 万人を超え、第 9 回文化庁映画賞・文化記録映画部門大賞、第 37 回日本カトリック映画賞を受賞した、児童養護施設を舞台にしたドキュメンタリー映画「隣る人」をご存じだろうか。

 

この映画に心打たれた人は、各地で自主上映会を行う。そのため公開から 7 年経った今でも、各地で自主上映会が開催されている。「児童養護施設」が舞台の映画ではあるが、この映画を見た人の多くが、児童養護施設の話としてではなく、人間関係に通じる大事な視点を感じ取るのだという。

 

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この日は通算 6 回目になるという、東京「ポレポレ東中野」での上映会にて、映画の企画を担当した稲塚由美子さんに話を聞いた。

 

 

 

「もう撮れない」。監督の言葉から、映画で本当に大切にしたいことが見えた

 

―「隣る人」は児童養護施設「光の子どもの家」を舞台にしています。「光の子どもの家」にはどのような特徴があるのでしょうか?

「家庭的養護による責任担当制」といって、基本的に、1 名の担当者が男女混合、年齢縦割りの 5 名以下の子どもを、ずっと担当していく制度を採用しています。責任担当制でない施設に比べると、家庭の雰囲気に近いと思います。

とはいえ担当者にはお休みもありますし、子どもたちと担当者が一緒にいないときもあるわけですが。担当者が一人で抱え込まず、周りと連携しながら子どもを育てていくことを大切にしています。施設は、家庭的な雰囲気を目指し、敷地内にいくつかの家と、地域にグループホームがあります。

 

―稲塚さんはこの映画制作にあたって「光の子どもの家」との関わりが生まれ、現在は理事まで務められているそうですが、映画を作るきっかけは何だったのですか?

この映画のプロデューサーである野中章弘さんが主宰するゼミに参加し、監督の刀川和也さんと知り合ったのがきっかけです。

刀川さんは当時、“日本で子どもの虐待がなぜ増えているのか、もっと深く知りたい”とドキュメンタリー制作を検討していました。そのなかで子どもの側に居続ける存在、つまり「隣る人」がその鍵になるのではないかと考え、「光の子どもの家」に撮影を申し込んだんです。 撮影は 8 年間にも及んだわけですが、撮影開始から 2 年ほど経ったときに刀川さんから「何も撮れないから、もう辞めようと思っている」という話があったんですね。

 

―何も撮れない、というのは?

彼には、「ただみんなでご飯を食べる、寝る、ワイワイやっている」-そんな日常しか撮れていないことに焦りがあったのかもしれません。

でも私はその生活を映すことこそが大事だと思うと伝えました。人が人になる現場というか、人を生かすということはどんな空気感があるのか、そんなことを映し出したいと。

映画のなかにも出てきますが、親との結び直しをするなかで、うまくいくことばかりではないですし、心が痛むようなシーンもあります。でもそのなかにちゃんと生活があって、心を痛めた人の横に誰かがいる。私は、そんなことが伝わる映画にしたかったんです。

「なかったことにされる人」が許せなくて

 

―稲塚さんは翻訳家、ミステリー評論家、「光の子どもの家」の理事、海外の子どもたちの里親などなどさまざまな顔をお持ちですが、その活動の根底には共通するものがあるのでしょうか?

私には知的・身体障害のある兄がいます。その兄を通して、困っていても自分からは発信できず、置いて行かれてしまい、誰にも気づかれない人がいるということを幼い頃から見てきました。「ないことにされている人、隠されている人」が、このままでいいのか、そしてそんな状況を許せないという思いがどこかにありました。

また、父や母は、長男である兄に対して『家を継げなくなってしまった』という思いがあって、どうにかして兄を障害がない子どもに見せようとしていました。もちろん、家制度が根強い時代に、地方で生きていかなくてはならない兄を思ってのことだというのは想像できるのですが。

そういう境遇もあったので、「血がつながった家庭の中で、愛情があれば、すべてうまくいくというわけではない」という思いがあったんです。むしろ、愛情があるからこそ、血がつながっているからこそ、勝手に「理想像を押し付ける」ということが起きてしまうのだと。これが自分の活動の根本にある思いです。

 

―それは海外ミステリーや翻訳にも、通じるのですか。

はい。元々外国語を学んだのも、世界でどんなことが起きているのか知りたいという思いからきています。そこから海外ミステリーにのめり込んでいくわけですが、実はミステリーというのは現実以上に社会を反映していると言ってもいいくらいなんです。そしてミステリーの犯罪の 8 割は家庭のなかで起きていると言っても過言ではありません。

つまり密室、人間関係がつまっている場所ということですね。ミステリーを読むことで、海外で今どんなことが起きているのかをより感じることができますし、評論を通してそれを日本の人たちに伝えていきたいと考えています。

「隣る人」は、“柔らかい責任”でできている

 

―この映画は児童養護施設の話ですが、稲塚さんは舞台挨拶で家族の在り方についてお話しされていましたね。

私たちを取り巻く社会では、血縁でつながった家庭が子どもにとって一番幸せだし、「いい子」、「不良じゃない子」がいいという考え方が一般的です。でも家庭が本当に“ゆりかご”だと言うなら、それは一体何のことを指しているのかということを、私は考えてきました。

それは 1 対1で向き合い、お互いがすべてを支え合うような距離感ではなくて、もっといい間合いのことを言ってるのではないかと。管理がない、支配がない状態。子どもたちが遊んだり、勉強したりしている横で洗濯ものを畳んだり、新聞を読んだり、うろうろしながら関わりあえる距離感。この映画にはまさにそんな場面がたくさんあります。

そして家庭の中が一番の密室で、外からは見えないということが、実は危険もはらんでいるのではないかと思うんです。現に家では子どもに対して「キィー!」となっていながら、それを外には一切見せていない、つぶれそうだと感じている人がたくさんいる時代だと思います。

子どもを育てることは簡単なことではありませんから、一緒に暮らしていたら、血がつながっていようがいまいが、子どもに対して「コンチクショウ」と思うようなことはあるはずです。そこに第三者的な立ち位置の人がいて、ああじゃない、こうじゃないといいながら、通り過ぎていくような、密室ではない家庭があればいいなと思うんですね。

これは大家族がいい、核家族がだめ、という話ではなく、血のつながりはなくても「隣る人」が近くにいることで、つぶれなくてすむ人が増えるのではないかということです。

 

―映画を見て、自分は誰かの「隣る人」になれているだろうかと考えてしまいました。

この映画の公開当時、映画の中に出てくる保育士のまりこさんをマリア様のように見ている人が多かったと思います。でも、まりこさんは、高い志を持って「光の子どもの家」にいたわけではないんです。

2 年くらい働いたら辞めようかな、なんて軽い気持ちで思っていたそうです。でも、たまたまそこに自分を必要とする人がいて、子どもたちの隣る人になっていったという。

人間は、自分に対して必要だというまなざしを向けられたときに、放っておけなくなってしまうのではないかと思いますし、そういうご縁でつながって、結果的に「隣る人」になってしまったくらいでいいのではないかと思います。

最初にお話した通り、「光の子どもの家」の責任担当制は柔軟なもので、自分一人で抱え込まず共有することを何より大切にしています。これを私は「柔らかい責任」と呼んでいますが、そのような柔軟さで関わる気持ちが大切なのではないかと思います。

血縁「だけ」が本当に大切なのか。もう一度考えてみたい ―この映画によって、こんなことが伝わったら、という思いはありますか?

私が言うのも僭越なことですが、血縁でつながった関係が本当にどれだけ大事なものなのかということを、この映画を見た人にもう一度考えてみてほしいなと思うんです。血がつながっているんだから、これが当たり前、というようなことに縛られていないかと。

それによってとても窮屈で、極端なケースでは相手を殺してしまうようなことが社会では起きています。家族の形は多様化しているのに、お父さんがいて、お母さんがいて、子どもがふたりいて、というような理想的な家族モデルを作り出して、そこに縛られている気がするのです。

キャッチコピーにもなっているように、この映画には「誰もひとりでは生きられない」というメッセージが根底にはあります。今、社会では「自立」が重要視されているために、「孤独だろうと、なんでも一人でやっていかなければならない」、という考えがありますが、自立をするためにはその養分となるものが必要で、それは大人になっても同じなのではないかと思うんです。私はサインを求められたときにいつも“I miss you”と書くのですが、世界中の一人でもいいから、あなたはかけがえのない存在だよ、いなくなったらさみしいんだよと言ってくれる人が近くにいれば、乗り越えられることもあるのではないかと思います。

声高に主張するわけでも、間違いを指摘するわけでもなく、ただ存在を認めて、近くにいる、「隣る人」。何かと言えば自己責任論をぶつけられてしまうような社会で苦しんでいる人にこそ、「隣る人」が必要だ。

先日発売された中川翔子さんの著書『「死ぬんじゃねーぞ!!」 いじめられている君はゼッタイ悪くない』(文藝春秋)の中でも、“いじめを受けていた自分の近くに、友人として「隣る人」がいてくれたことが助けになった”ということが書かれている。

自分は誰かの「隣る人」になっているのか、それとも「隣る人」が必要なのか。これを機に考えたい。

 

隣る人ホームページ

http://www.tonaru-hito.com/